信夫山おもしろ話 Chapter.9 | 信夫山ガイドセンター
“信夫山”のおもしろ~い話  その41 ~ その45
このお話は「生活情報誌 リビング福島」にも掲載されています。
その41 信夫山の転び石
 信夫山トンネルの北側に「転び石」という字名があります。
 その由来は、なんと信夫山の頂上から巨大な石が転げ落ちてきて、子守の女の子を押し潰してしまったのだとか。そして、その巨石は昭和の時代まで(?)、田んぼの真ん中にどーんと鎮座していたのだそうです。
 現在は、信夫山北の道路向かいに、記念碑が立っています。
 さて、この巨大な転び石が、実は、信夫山の南にも落ちてきていたのです。しかも、それは現在もそこにでーんと鎮座しています。  

 「そこはどこか?」というと、なんと福島県立図書館の裏庭です。県立美術館・図書館の正面中庭のプールの奥に、裏庭に抜ける地下道があり、そこをくぐり抜けると簡単裏庭に出られます。
 「転び石」は図書館駐車場の緑地にありました。早速見に行くと、高さ2.6メートルほどもある大岩で、その昔、南の烏ケ崎の岩場から、ものすごい音と地響きを伴って転げ落ちてきたものだそう。地元の人々は、怖れと畏敬の念を込めて「お岩さん」と呼び、しめ縄を張って祀(まつ)ってきました。
 現在は、「大山づみ※1神(おおやまづみのかみ」と、「大田明神」と刻まれた石碑が立っています。大山づみ神は山の神様で、春になると山を降りて田の神さまに、秋になると山に帰ります。信夫山の話は尽きません。
 注:※1 「づみ」は、ころもへんに氏

H28.06.18発行 リビング福島に掲載

その42 信夫山護国神社とは?
 信夫山「護国神社」は、初詣等で訪れた方も多いことでしょう。国のために命を捧げた英霊を合祀するために設けられた神社で、明治12年に信夫山「招魂社」として造営されました。御祭神は天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)です。
 昭和12年に現在の社殿が建てられ、昭和14年に福島県「護国神社」と改称されました。入母屋造りで、左右に鳳凰型の翼廊がある堂々とした社殿です。元旦祭や春季・秋季例大祭をはじめ、年間を通じて、イベントやお祭りも行われています。  

 また、護国神社入り口には、信夫山「天満宮」があります。菅原道真公が御祭神ですが「願うて叶(かな)わざるはなし」として、太宰府天満宮より御分霊を拝載し、昭和63年に創建されました。
 「なで牛」と呼ばれる牛の像が祀(まつ)られていて、なでた場所にご利益があると言われています。合格祈願には頭を、病気の方は具合が悪い所をなでてみてください。
 奥右隣に、黒沼神社があります。こちらは1200年以上の歴史があり、石姫皇后と皇太子伝説も掲げられています。
 延喜年間に国が全国の神社を定めたとき、信夫郡で最初に「延喜式内神社」として列せられた古社で、板倉藩主代々の絵馬が奉納されています。
 信夫山は神社にもいろいろな物語があったのですね。
 

H28.06.25発行 リビング福島に掲載

その43 伊達政宗と松川合戦
 今回は、伊達政宗が福島攻めをした松川合戦のお話をします。
 慶長5年(1600年)、伊達政宗は伊達・信夫領郡を奪回すべく、信夫山(信夫山公園)に本陣を構え、上杉方の福島城・城代本庄繁長と対陣しました。この年は関が原の合戦が有名ですが、その約2カ月後に上杉と伊達政宗の松川合戦が行われたのでした。
 もともと、古くから福島一帯は伊達家の所領でしたが、豊臣秀吉の日本統一により召し上げられていました。
 その後、徳川家康と豊臣家の争いとなり、豊臣の重臣であった上杉景勝の監視役を引き受けた伊達政宗に対し、家康は旧領回復を約束しました。   

 「東北の関が原の戦い」とまで言われた政宗の福島攻めには、こんな背景があったのです。
 当時、松川は信夫山の南側を流れていて、現在の一盃森と橘高校、桜の聖母辺りの前を通り、福島競馬場の北端から阿武隈川に注いでいました(現在のように信夫山の北の流れになったのは、寛永14年(1637年)の大氾濫によるものです)。両軍はその松川を挟んで激しく戦い、ついに福島勢が伊達政宗を打ち負かします。政宗は味方した信夫山の別当寂光寺と茂庭に逃れ、仙台に帰ったといわれています。
 その福島城は、現在福島県庁裏にわずかに土塁が残っているだけです。
 

H28.07.02発行 リビング福島に掲載

その44 羽黒神社のお話し
 今回は、信夫山山頂の羽黒神社のお話です。大わらじが奉納されている神社ですから、少し勉強をしておきましょう。
 さて、羽黒神社は昔、「羽黒大権現」といって神仏混淆(しんぶつこんこう)=つまり、神様と仏様を一緒に祀(まつ)った神社でした。しかし、日本は神国であるとして、明治2年の神仏分離令により、神社と定められ、立派な仁王門が取り払われてしまったのです。
 羽黒神社の始まりは、よく分かっていません。  

 聖徳太子のいた推古天皇の時代“羽黒大権現みちのくに現れる”(628年)とあり、天安時代、慈覚大師が古刹(さつ)「薬王寺」を開く(857年)以前には、もう山頂にあったわけですね。
 明治11年の「福島県神社明細帳」では、ご祭神は沼中倉太玉敷命(ぬなかくらふとたましきのみこと)、つまり30代敏達天皇ということになっていますから、黒沼神社由緒の石姫皇后の息子、ということになります
 それにしても、昔の羽黒神社は立派な大社殿でした。高さは15メートルもあり、総ヒノキ造り、東西北には、ヒノキの一枚板に見事な彫刻が施されていました。保原の長谷川雲橋・雲谷親子が彫ったものです。
 雄大素朴な神社でしたが、惜しくも昭和51年に焼け落ちてしまい、朱色のコンクリートづくりになっています。
 

H28.07.09発行 リビング福島に掲載

その45 羽黒神社の結界の謎
 「羽黒神社」のお話をもう少し続けましょう。なにしろ、古い古い神社ですから、いろいろ謎が多いのです。
 大わらじを見に行った人は多いと思いますが、旧参道の最後の階段を登ると岩盤がむき出しになった険しい坂道になります。そこからが羽黒神社の結界といわれる聖なる領域になるのです。
 昔は、階段の右手に寂光寺という山伏の総本山がありました。  

 岩坂には、昔、仁王門が有ったのですが、まず注連掛(しめかけ)岩が立ちふさがります。「参詣の人この石を踏まば必ず災いあり」と怖れられる岩で、さらにその上には仁王岩という二本の角を持つ岩盤がありました。
 「昭和初めまではしめ縄が掛けてあったが、わらじ奉納が大きくなってから邪魔になり、戦後にはついにダイナマイトで破壊されちまった」と古老のお話です。
 ようやく仁王門をくぐると、また岩塊があります。そこには義経の馬の足跡石、弁慶の膝かぶ石、大神宮石塔、西坂珠屑(しゅせつ)の名月の碑がありますが、それは現在も残っています。
 面白いのは、膝かぶ石の上に風穴という岩穴があって、つねに微風が出ていたというのです。羽黒山のオシミモノといわれる地下の黄金から吹き上げる嵐といわれますが、今は塞がれているのか見つかりません。残念。
 

H28.07.16発行 リビング福島に掲載
 

 
信夫山おもしろ話
下のグループをクリックすると各ページに進みます。 また、スライドのタイトルをクリックしてもお話を読むことができます
■ こんなお話です。(題名一覧) ■

信夫山わらじい