信夫山おもしろ話 Chapter.5 | 信夫山ガイドセンター
“信夫山”のおもしろ~い話  その21 ~ その25
このお話は「生活情報誌 リビング福島」にも掲載されています。
その21 わらじいの秘密
 信夫山の「暁まいり」が間もなく始まりますね。そこで、今日は「わらじい」の秘密をご紹介。
 わらじいの年齢は300歳以上といわれています。大わらじから生まれたので、身体はワラでできているとか。本名は羽黒護左衛門藁助(はぐろごんざえもんわらすけ)という立派な名前です。なにしろ、足腰の弱い人や恋人同士を見ると放っておけなくなる性格で「わらじから生まれたから、健脚と身体壮健にはご利益抜群じゃ」と本人も保証済み。さらに縁結びも得意で、「二人で『暁まいり』に参加すればたちまち良縁が結ばれるはずじゃ!」と公言しています。パセオ通りの「信夫山散歩」にはお守りもありますよ。  

 さて、歴史をちょっと振り返ってみましょう。信夫山に大わらじが奉納されるようになったのは、約300年前といわれ、初めは仁王様の強い力に頼って病や邪を払ってもらおうと大きなわらじを奉納したのが始まりです。当時は、東北を代表する祭りの一つで、最盛期は7万人を超す参拝者があふれ、雪の凍路を登っていきました。戦後でも特別列車やバスが運行され、街は商店や映画館が24時間通しでにぎわったそうです。そこで、男女が出会い、縁結びの祭りといわれるようになったのですね。現在は、御山敬神会が受け継ぎ、長さ12㍍・重さ2㌧という、まさに日本一の大わらじを奉納しています。

H27.01.23発行 リビング福島に掲載

その22 松川は信夫山の南を流れていた!?
 今日は、松川の流れと信夫山についてお話ししましょう。
 現在、信夫山の北を流れる松川。実は以前は信夫山の南を流れていました。慶長5年(1600年)、伊達政宗が信夫山の護国神社前に本陣を構え上杉方と激しい戦いを繰り広げ、福島勢が伊達政宗を打ち負かしたという「松川合戦」の話はご存知の方も多いのでは。その当時、松川は信夫山の南を流れていて、現在の一盃森・福島テレビの南側から競馬場の北端を通って阿武隈川に注いでいました。では、いつから信夫山の北を流れるようになったのでしょう?  

 現在の流れになったのは、寛永14年(1637年)の大洪水によるものです。堤防が無く、両岸に松が植えてあるだけだった松川は大きな被害を受けました。それによって、現在の南沢又の福島刑務所の上辺りで信夫山の北側に流れが変わってしまったのです。実際の松川を見ても、本当に信夫山の南を流れていたのか…なかなか実感が湧きません。
 この季節、松川の川寒橋付近にはたくさんの白鳥が訪れていて、優雅な姿で私達を出迎えてくれています。川の流れと白鳥に癒されながら信夫山を見上げてみると、今までとは少し違った視点で楽しめるかもしれませんね。

H27.01.30発行 リビング福島に掲載

その23 信夫山の雪室(ゆきむろ)の話
 今回は、信夫山の雪室で氷を作っていたというお話です。
 雪室とは、大きな雪の貯蔵所のこと。福島藩主・板倉公の時代から明治にかけて、信夫山の護国神社の上の山の斜面にありました。
 冬の大寒大雪の頃、人足が集められて、雪室に大量の雪をかき集めました。その上にわら屋根をかけて、夏までその雪を保管したのです。すると雪の重みと冷たさで、中が氷になったのでした。  

板倉公は城内で7月に夏越しの祭りを行っていたそうですが、その時に城下の役人や、町年寄り、御用達の商人が招かれて、この雪氷をかけた素麺が振舞われるのが習わしでした。
 板倉藩の始まりは元禄の終わりごろ(1702年)で、夏越しの祭りは安政(1855年)との記録があります。明治の始まりが1867年ですから最近の話ですね。
 現在も護国神社の上の車道を登ったところに、巨大な四角いくぼみがあります。後ろは崖で、今はうっそうと草木が茂っていますが、何百㌧もの雪が貯(た)められそうな場所です。ここに確かに雪室が存在したのでしょう。
 エコロジーが重視されている昨今、電気を使わない天然冷蔵庫としての雪室は現代でも見直され、利用されている地域もあるそうです。まさに、先人の知恵ですね。

H27.02.06発行 リビング福島に掲載

その24 仙台の「青葉城」は信夫山の古名!?
 今回は、“私たちが慣れ親しんでいる「信夫山」が、昔は「青葉山」といわれていた?”というお話です。
 松川合戦の話を前回紹介しましたが、慶長5年(1600年)、伊達政宗は護国神社の信夫山公園(愛宕山)に本陣を構え、当時信夫山の南側を流れていた松川を挟み、福島城代の本庄繁長と向かい合いました。  

 最終的には福島勢が伊達政宗を打ち負かしましたが、その後、仙台に帰った伊達政宗は城作りに着手し、一緒に戦い落ち延びた信夫山の別当寂光寺慶印に土地を与え、青葉山寂光寺を再建させました。仙台城の雅号を「青葉城」と名付けたのはその恩義のためです。
 実は「青葉山」とは信夫山の古名で、仙台に「残月台本荒萩」という本がありますが、青葉城は福島の青葉山の名を移したものと明記されています。同書には、「奥州伊達郡瀬上宿付近の、伊香良目という在家の東南に青葉山と言う山有、山一通松の木にて一年中青葉を見るに以って青葉山といふ、この青葉山を言移したる説なるべし」と書かれています。
 現在、仙台城展望台の解説板には信夫山のことは一言も記載されていません。寂光寺が再建された所が仙台の青葉城ともいわれ、松川合戦記録も単に兵を引く、とだけ記されています。よほど悔しかったのでしょうね。

H27.02.13発行 リビング福島に掲載

その25 だれが植えた?信夫山の桜
 信夫山と言えば、市民みんなに親しまれている桜の名所でもあります。
 信夫山公園は、東京の上野公園と同じ時期、明治7年(1874年)に政府の認定する公園になりました。
 その後、明治32年(1899年)に、当時の町長であった鐸木(すずき)三郎兵衛たちが発起人となり、公園にソメイヨシノやヒガンザクラ約1万本を植樹し、現在の桜の名所が生まれたのです。  

 大日堂広場の南石段の傍らに「桜樹満株栽植記念碑」があります。その碑には、香雲満山にたなびき、麗景人を招く、云々(うんぬん)とあります。
 100年後の人々の楽しみを考えた、先人の思いに感慨深いものがありますね。
 ちなみに、寄進をされた方々の名前がずらりと並んでいますが、粉又さん、但馬屋さん、金澤さんといった、昔の人ならだれもが知っている町の商家さんの名前が多く見つけられます。
 多くの人々に、信夫山を愛して欲しい-。そんな気持ちが一本一本に込められていたことを感じながら、今年はもっと「桜」の気持ちになって眺めてみましょう。
 一方、残念ながら桜の寿命が尽きようとしています。特にソメイヨシノは70年を過ぎると老木になり朽ちてくるそうで、青年会議所や有志の方々が懸命に植樹に努力されています。みんなで活動を応援していきましょう。

H27.02.20発行 リビング福島に掲載

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