信夫山おもしろ話 Chapter.4 | 信夫山ガイドセンター
“信夫山”のおもしろ~い話  その16 ~ その20
このお話は「生活情報誌 リビング福島」にも掲載されています。
その16 信夫山五つ石の話
 信夫山といえば信仰の山。昔から信仰にまつわる伝説や伝承が数多く残されています。今回のお話は、信夫山48石といわれる不思議な形の岩の伝説です。昔は、信夫山を信仰する人は誰もが知っていて、敬ったり怖れたりして大切にしていた霊石でした。
 48石は信夫山のあちこちにありましたが、例えば、皆さんご存知の第一展望台の上には、「五つ石」といわれる奇岩があります。江戸時代までは、西の羽山は女人禁制の厳しい修験の山だったのですが、そこに修行に来ていた若い山伏僧を追って、母親が一つ手前の寺山(第一展望台)に小屋を作って息子の帰りを待ちわびていました。  

 何年待っても、若い僧の修行はなかなか終わらなかったそうです。そのうちに母親は歳をとって、いつの間にか熊野のババと呼ばれるようになり、ついに待ちくたびれたババは力尽きて亡くなってしまったのです。
 そのババは、5匹の白犬を飼ってかわいがっていたのですが、その犬たちはババが死ぬと、悲しくて七日七晩吠(ほ)え続け、とうとう石になってしまったそうです。
 五つ石を後ろから見ると、羽山を見つめる5匹の犬の形が、悲しくも並んでいるのですね。
 今は、道路整備などで多くの石が失われています。

H27.12.05発行 リビング福島に掲載

その17 信夫山の狐塚の話
 信夫山トンネルの入り口右側に税務署がありますが、その周辺を狐塚といって、昔、信夫の三狐が集まっては、人を化かす相談をしていたところだったといいます。
 例えば「一盃森の長次郎」です。この狐はとても頭が良くて、どんなにだまされまいと頑張っても人間は出しぬかれて、コロリと化かされてしまうのでした。
 ある日、様子をうかがっていた馬子の目の前で長次郎が葉っぱを頭に乗せてくるりと三回転すると、見事に美しい嫁子に化けました。そして山を降りて庄屋の屋敷に入って行ったのです。  

 庄屋はかわいい娘が帰ってきたと大喜び、さっそくごちそうを並べだしたのですが、そこに馬子が飛び出し、今日こそ狐の正体をあばこうと大騒ぎに。庄屋を説き伏せて嫁子を納屋に押し込め、松葉でいぶします。
 しばらくして納屋から出してみると、嫁子はぐったりとして死んでしまった様子でした。驚いた庄屋は怒り狂い、娘のかわりにお前の命をもらうと怒鳴り散らします。真っ青になった馬子は平謝り。通りがかった僧がとりなし、おわびに頭をそって丸坊主になり、命からがら退散したのでした。それを物かげから見て大笑いしていたのが僧に化けた長次郎狐でしたとさ。
 次は、意地悪な「石が森の鴨左衛門」の話です。どうぞお楽しみに。

H27.12.12発行 リビング福島に掲載

その18 悲劇の鴨左衛門狐の話
 信夫の三狐の一匹である、石が森の鴨左衛門の話は少々悲劇的です。
 信夫山の北、鎌田の庄屋の家に男の子が生まれました。とても利口な子どもで、大きくなるにつれ、ますます神童ぶりを発揮し、その名は仙台まで届いたそうです。
 すると、岩沼の竹駒神社から、ぜひ宮司にと使者がやってきました。喜んだ家族は祝宴を開き、鴨左衛門を送り出そうとしましたが、今度は京都の神社から「式典があるから出向くように」という便りが来たのです。  

そこで、これはますますすごいことになってきた。と本人も喜び勇んで出発したのでした。
 さて、鴨左衛門がようやく京都の神社にたどり着くと、そのときにはもう、先に来た人たちが黒山になっていました。そこで頭のいい鴨左衛門が、要領良く後ろからヌーッと手を出した途端、いきなり手を掴まれ正一位のハンコを手のひらにピタンと押されてしまったのです。
 驚いて帰ってきた鴨左衛門は祝宴でも油揚げしか食べず、やがて疲れたと寝込んだ姿を月明かりで見ると、神罰に当たり耳まで口の裂けた狐そのものになっていました。「化け物だ!」とみんなに追い出された鴨左衛門は泣く泣く石が森に住みつき、それ以来、根性がねじ曲がり、小ずるい、意地悪な狐になってしまったのだそうです。

H27.12.19発行 リビング福島に掲載

その19 名関脇「信夫山」の話
 お正月にふさわしい、おめでたい? 話をしましょう。大相撲のファンの方はたくさんいらっしゃると思いますが、実は福島に双差し名人の「信夫山」というすごい力士がいたのです。
 今は大横綱は「白鳳」ですが、昔は69連勝の大横綱「双葉山」がいて、いまだにその記録は破られていません。その時代(昭和15年)に旧伊達郡保原町から大相撲に入門したのが信夫山治貞でした。

 実家は本間家といい、保原では名の知れた繭(まゆ)の仲買業者でした。入門後は、途中戦争に駆り出されたりと不運が続きましたが、なんとか相撲界に復帰し、猛稽古からどんどんと出世。昔の栃錦・若の花が活躍した栃若時代に、なんと新横綱「若の花」を初日に破ったことのある名力士だったのです。
 見事、関脇まで上り詰めたその双差しの技は、玄人泣かせといわれるほどで、「りゃんこの信夫山」として、いまだに語り継がれています。
 面白いのは、初めの四股名はあの「吾妻山」でした。一時期、本名の本間を名乗った時代もあったようですが、昭和24年に信夫山に改めてからは快進撃が続き、176㌢82㌔という小兵力士ながら、殊勲賞・敢闘賞・技能賞を8回も受賞。横綱を破った金星7個獲得という正に記録より記憶に残る名力士でした。今は、東京江戸川区にある泉福寺に眠っています。

H27.01.01発行 リビング福島に掲載

その20 岩谷観音の話
 信夫山の東端に「岩谷観音」という所があるのはご存じですね? 福島市指定の史跡にもなっていて、それは見事な磨崖仏(まがいぶつ)が60体も岸壁に彫られています。
 磨崖仏とは、自然の岩面を半肉仏として彫刻したものです。
 昔の人は今よりずっと信心深く、ご先祖さまが仏さまの世界で安楽に暮らせるよう、そして、自分も救われるようにと、一心に祈ったのですね。このような磨崖仏は世界中で見られます。

 さて、岩谷観音は、もともと五十辺地区の豪族であった伊賀良目(いがらめ)氏が、洞窟に聖観音を安置したことに始まりました。福島藩主板倉家の歴代略記によれば、彫られ始めたのは1700年ごろとありますが、びっくりすることにはそれ以後も、明治の初めまで供養仏が彫り続けられたのだそうです。
 また、岩谷観音には庚申塔(こうしんとう)も多く立っています。庚申信仰とは中国から来た信仰で、庚申(昔の暦で、かのえさるの日)の夜、人の中に住んでいる三尺(さんし)の虫が、寝ている時に身体から抜け出して、その人の罪料を天帝に告げ口し、天帝はその報告によって人を罰するというのです。だから、昔の人は行いを良くして、庚申の夜は眠らずに過ごしたのだそうです。岩谷観音は隠れた桜の名所、ぜひ一度、訪ねてみましょう。

H27.01.16発行 リビング福島に掲載

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