信夫山おもしろ話 Chapter.14 | 信夫山ガイドセンター
“信夫山”のおもしろ~い話  その66 ~ その70
このお話は「生活情報誌 リビング福島」にも掲載されています。
その66 文化センターと信夫山
 今回は「とうほう・みんなの文化センター」(福島県文化センター)と信夫山のお話です。
 昔、県文化センターのところは鳥目(とりのめ)湿地といって、信夫山ふもとの窪地でした。一部が沼沢地となった湿地で、モウセンゴケなどの食虫植物や水草植物が多かったそうです。
 一帯には、清冷な清水が沸いていて、昭和2年には文化センターの場所に「丸共製糸場」という工場ができました。  

 その上にカニ沢という所があって、大蟹(ガニ)が住み、黒沼(ハローワークの向かいの噴水公園で昔は沼)の大蛇と戦い、はさみ殺したという伝説が残されています。
 実は、信夫山への最古の正参道は、文化センターの東から登る道でした。昔、羽黒山参拝者は、霞町の常覚院という先達院で祈祷(きとう)を受け、祓(はらい)川で身を清めてから登ったそうです。大変でしたね。
 旧参道の道筋ははっきりしませんが、東稜高校の校庭の上には、稚児石という信夫山48石やたんたら清水もあります。
 また、産居(さんきょ)といわれるお産をする小屋もありました。
 今、文化センターの後ろには所窪団地・信夫山墓地が整備され、湿原は無くなってしまいました。
 こんな風に、信夫山はちょっと調べるだけであらゆる物語がでてきます。面白いですね。
 

H28.12.24発行 リビング福島に掲載

その67 コラムを書いているのはこの人です
 あけましておめでとうございます。今年が皆さまにとって素晴らしい年になりますように。
 さて、「わらじいと行く信夫山散歩」のこのコラムも、67話を迎えることになりました。
 平成27年8月22日号が第1話でしたから、今月でなんと17カ月も続いている長期連載コラムになっています。
 さらに、平成27年9月19日号~翌年8月13日号の1年間は、毎月「信夫山散歩Special」として1ページの信夫山特集を組んで情報をお届けしてきました。   

 ちょっとコアな情報コラムでしたが、「信夫山にこんな話があるとは知らなかった」「信夫山の魅力と素晴らしさが初めて分かった」と、たくさんの人が楽しんでくださいました。やはり信夫山は「福島市民のシンボル」だったのですね。
 そんなコラムを毎週書いているのは、通称信夫山博士の浦部博さんです。なにしろ、信夫山を研究して45年にもなるというのですからびっくり。信夫山ガイドマップ、伝説小冊子、映像DVDなど、数多くの情報発信を続け、信夫山ガイドセンターの誕生にも大きく関わって活動しています。
 さらにFMポコでは、毎週月曜日(再放送水曜日)に、ふくしまボンガーズしなだマンと浦部さんの楽しい掛け合いで、信夫山コラムを放送しています。ぜひ聴いてみてください。
 

H29.01.01発行 リビング福島に掲載

その68 御山千軒町とはなーに?
 信夫山山頂から、福島市の北部全景が見られるのはご存知ですね。
 第一展望台北側に「薬師の峰展望デッキ」、一周道路北側に「第三展望デッキ」があり、広大な眺めが楽しめます。
 信夫山トンネルの北側からは国道13号線と新幹線がそれぞれにまっすぐ伸びていますが、ちょうどその交差する地点が「ヤマダ電機」の黄色の建物で、山からよく見えます。
 実は、その「ヤマダ電機」のある一帯は、昔、福島町より大きな村落があって「御山千軒町」といわれていたそうです。   

 奈良時代から平安初期まで栄えており、今でも町中・中ノ町・中屋敷・古屋敷などの地名が残っています。泉・南沢又まで広がる地域で、昔は信夫山の北側が「福島の町」だったのですね。
 なぜ、そんな町が消えてしまったのかというと、ある時、松川が大氾濫を起こしてすべてを押し流してしまったからだそうです。
 そういえば、伊達政宗との松川合戦(1600年)のときには、松川は信夫山の南を流れていましたね。
 平安以降、松川は何回か流れを変えています。古老によると、戦前、信夫山北部は広い水田地帯で、小さな泉川が松川と並行して流れており、そこにかかっていたのが「念仏橋」だそうです。
 信夫山はさまざまなことを教えてくれますね。
 

H29.1.14発行 リビング福島に掲載

その69 青葉山(信夫山の古名)と羽山の謎
 信夫山は、西の烏ケ崎のある羽山と、中央の羽黒神社のある羽黒山と、東の熊野山と、三つの峰に分れていて「信夫三山」といわれています。
 大昔は、山神であり水神・農耕神である奥山の「吾妻山」が信仰の本社で、信夫山はいわばその出店のような存在であった、と考えられています。他の地区でも吾妻山が見える里山の西端を、羽山(端山)と呼ぶことが多いのはこのためですね。
 信夫山は、盆地の真ん中にある孤立丘ですから「大羽山」と呼ばれ、これが転じて「青葉山」(信夫山の古名)といわれるようになった、と考えてられています。

 さて、そんな信仰の山でしたから、西端の峰は霊験あらたかな奥ノ院といわれ、特に烏ケ崎は眺望絶景で巨岩がるいるいと重なり、山伏たちの厳しい修験の場所となりました。後に西峰だけが「羽山」となりましたが、女人禁制の神聖な羽山には、戦前まで女性は近づけませんでした。
 羽山には、月山神社と湯殿山神社が祀(まつ)られていますが、当時は岩倉(岩の寄り集まった所)そのものがご神体でしたから、神社そのものはごく質素になっています。
 烏ケ崎の先端の護摩壇岩は、山伏が吾妻山遥拝を行った修験場で、吾妻小富士がちょうど目の高さに見えます
 なにしろ羽山はすごい所なのですね。
 

H29.1.21発行 リビング福島に掲載

その70 昔の暁まいりとは①
 間もなく信夫山の「暁まいり」ですね。毎年2月10日に「大わらじの奉納」が行われるのは知っているけれど、暁まいりは行ったことがない、という人が多いのではないでしょうか。
 実は、昭和30年代までは、暁まいりは福島市だけでなく信達平野全体の最大の祭りとしてにぎわっていたのでした。
 古老は言います。「俺が若い頃までは本当にすごい祭りだったなあ。『裸まいり』も盛んで、男子はふんどしを締めこんで、腰にはし

め縄を巻いて、白鉢巻きに足袋とわらじ掛け。梵天(ぼんてん)を先頭にして雪の吾妻おろしの中を、必死に駆け登って羽黒山に参拝したもんだった。その当時は大わらじも複数で、村々の若い衆が、雪の中悪戦苦闘して御神坂(おみさか)を担ぎ上げたもんで、今のように楽な奉納ではなかったんだ」。
 「参拝する人手も桁違いで、男女とも押し合いへしあいしながら、滑る雪道を手を握り合い、助け合って登ったから、縁結びの行事とも呼ばれるようになったんだわい。今では考えられねぐらい大規模だったぞ」。
 戦後、意気消沈した人々を勇気づけようと、大わらじが復興したのですが、わらじが大きくなるに従い、熱狂的な祭りに。なんと7万人ともいわれる人が詰めかけ、臨時列車や臨時バスが増発されてきます。続く。
 

H29.1.28発行 リビング福島に掲載
 

 
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