信夫山おもしろ話 Chapter.13 | 信夫山ガイドセンター
“信夫山”のおもしろ~い話  その61 ~ その65
このお話は「生活情報誌 リビング福島」にも掲載されています。
その61 信夫山と町の豪商たち
 信夫山の黒沼神社には、板倉のお殿様が、代々絵馬を奉納していましたが、一方で、町衆・村衆も見事な絵馬額(龍図・花鳥図)を奉納しています。
 これは、常時飾られているので、扉が開いているときには、自由に見ることができます。
 絵馬額は、幕末の安政2年(1855年)に奉納されていますが、町衆とは福島町の豪商といわれた人たちで、当時の大商人は資産家になればなるほど、惜しみなくお金を拠出して、町の振興に尽くしました。  

 びっくりするのは、その見事な絵馬額を描いた金澤椿山(ちんざん)という絵師は、なんと奉納に名前を連ねている豪商の一人、金澤弥五兵衛その人でした。商人であると同時に、狩野派の絵師だったのですね。
 今も代々続く名家の名前が多く並んでいますが、中でも長澤春吉(但馬屋)は、その子孫たちが信夫山に石灯篭・地蔵尊・御賓塔(共同納骨堂)など、数々の寄進をしています。
 信夫山を現在の桜の名所にした「桜樹満株栽植記念碑」にも、そんな商家の方々が名前を連ねています。昔の人は、本当に偉かったですね。
 ちなみに町衆の寄進は「御城下町々絵馬」とあり、村衆は「御領内村々絵馬」と書かれ、豊作を祈願したものでしょう。
 

H28.11.19発行 リビング福島に掲載

その62 信夫山産の陶器 福嶋焼の話
 みなさんは、幻の陶器といわれる「福嶋焼」の話を聞いたことがありますか?
 真っ白な美しい肌合いの、絵付けの素晴らしい生活陶器でしたが、それはなんと、信夫山の白土山といわれる所から取れた白粘土を使って焼かれていました。
 昔から、信夫郡の農家では、この白粘土を土蔵の白壁として使っていたそうですが、この白粘土が製陶に適していることが分かり、明治41年の民友新聞に分析記事が発表されました。   

 焼き縮みがなくて、白色の薄手の皿物に適していたため、明治44年に福島町の加賀屋が今の橘高校の北側に、「福島製陶所」を作ってたくさんの陶器を売り出しました。
 絵付師は、会津本郷の窯元から技術者を招いて本格的だったそうです。
 驚くのは、この瀬戸加賀屋の金澤忠右衛門が、あの信夫山黒沼神社の絵馬額を描いた絵師、金澤椿山の弟だったのです。
 おかげで福嶋焼きは評判も高く、県内あちこちに販売したそうです。しかし残念なことに、信夫山の白土は量が少なく、やがて掘り尽くしてしまい、工場は閉鎖することになりました。
 今は幻の陶器となっていますが、先日やっと金澤家の子孫のお宅で、貴重な白い陶器に出会うことができました。いつまでも残ってほしかった福嶋焼ですね。
 

H28.11.26発行 リビング福島に掲載

その63 座禅岩と子守石の話
 信夫山には不思議な伝説の岩があって、信夫山48石といわれています。
 昔は厳しい参道をたどって、ようやく出合うことができた霊石でしたが、今は、例えば「座禅岩」も、すぐ近くの月山駐車場まで車で登れるので、容易に見ることができるようになりました。
 信夫山西端の大絶景「烏ヶ崎」も、月山駐車場からだとわずか7~10分で行けます。   

 さて、その「座禅岩」ですが、駐車場の階段を下りるとすぐ、案内看板が目につきます。そこを入っていくと、見事な大岩が鎮座していて、ちょうど座禅を組める平らなところがあります。
 なんと、そこは昔、弘法大師が座禅を組んで悟りを開いた、といわれる岩で、山伏信仰の盛んな時代、何千といわれる山伏僧が座禅を組んで修行をしたのだそうです。
 信夫山のパワースポットの一つで、そこに登って座ってみると、たちまち頭がすーっと冴えてくるそうですよ。
 昔、その周辺には、修行をした僧が一心不乱に経文を書いた「一字一経石」が数多くみられました。
 また、その座禅岩のすぐ下に、「子守石」という岩が立っています。なんとその岩は、女人禁制であった羽山の掟を知らずに登ってきた子守が、神罰でたちまち岩にされてしまったというのですね。
 

H28.12.03発行 リビング福島に掲載

その64 信夫山は優秀な金山
 信夫山は、むかし優秀な金山だった、という話を聞いたことがある人は多いはずです。
 実際にその通りで、鎌倉時代ごろから、福島で金鉱山として有名だったのが、信夫山金山、大森の城山、松川金山でした。
 昔、奥州の金を都に運んで大もうけをした、金売り吉次という商人がいました。義経を平泉の藤原氏に逃がす手助けをしたと言われる人物で、当時の信夫山や城山の金を扱って稼いでいたそうです。   

 信夫山を探索してみると、あちこちに昔の金鉱跡がありますし、その周辺には昔のたぬき堀りの穴の跡も、たくさん残されています。たぬき掘りは、人が一人やっと入れるほどの穴を、金脈をたどりタガネで掘り進んだものだそうです。
 一般に、金鉱山は鉱石1トンあたり、7グラムの金が含まれていれば採算が取れると言われていますが、信夫山の金は1トンあたり14グラムの金が含まれていたといいますから、大変良質な金鉱だった訳です。
 本格的な採掘がはじまったのは昭和8年で、当時の大日鉱業が大規模な採掘をはじめました。
 昭和10年代には、信夫山北側・早坂地帯のいたる所に金鉱石を掘り出したズリ山があり、選鉱場やら飯場があって、鉱夫や家族でにぎわい、山神の祭りには芝居小屋も立つほどだったそうです。
 

H28.12.10発行 リビング福島に掲載

その65 今も残る金鉱跡
 優秀な金鉱山だった信夫山ですが、なにしろ小さな山でしたから、やがて掘り尽くされてしまいました。
 しかし、金鉱だった証拠に、今でもいくつかの坑道入口跡を見ることができます。
 昭和30年代までは、金竜鉱とよばれる坑道入り口が有名で、青少年の冒険の基地にもなっていましたが、25年と36年に子どもが2人、行動の竪穴に落ちる事故があって、その後、ふさがれてしまいました。さらに、探訪取材ロケ隊も1人落ちたそうですよ。   

 面白いのは、その金竜鉱は信夫山を南から北に貫通していて、北口がぽっかり口を空けていることです。
 信夫山の金鉱はいろいろな運命をたどり、終戦間際には西端にある金鉱跡を活用して、なんと、中島飛行機の戦闘機のエンジンを組み立てる地下工場(フ工場)がつくられることになり、大勢の挑戦人が強制労働に駆り出されました。当時、学生も動員されたので、工事に従事した記憶がある高齢者が、まだたくさんおられます。
 そんな金鉱跡を、いつか活用できたらいいですね。
 

H28.12.17発行 リビング福島に掲載
 

 
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