今回は、伊達政宗が福島攻めをした松川合戦のお話をします。
慶長5年(1600年)、伊達政宗は伊達・信夫領郡を奪回すべく、信夫山(信夫山公園)に本陣を構え、上杉方の福島城・城代本庄繁長と対陣しました。この年は関が原の合戦が有名ですが、その約2カ月後に上杉と伊達政宗の松川合戦が行われたのでした。
もともと、古くから福島一帯は伊達家の所領でしたが、豊臣秀吉の日本統一により召し上げられていました。
その後、徳川家康と豊臣家の争いとなり、豊臣の重臣であった上杉景勝の監視役を引き受けた伊達政宗に対し、家康は旧領回復を約束しました。

 「東北の関が原の戦い」とまで言われた政宗の福島攻めには、こんな背景があったのです。
当時、松川は信夫山の南側を流れていて、現在の一盃森と橘高校、桜の聖母辺りの前を通り、福島競馬場の北端から阿武隈川に注いでいました(現在のように信夫山の北の流れになったのは、寛永14年(1637年)の大氾濫によるものです)。両軍はその松川を挟んで激しく戦い、ついに福島勢が伊達政宗を打ち負かします。政宗は味方した信夫山の別当寂光寺と茂庭に逃れ、仙台に帰ったといわれています。
その福島城は、現在福島県庁裏にわずかに土塁が残っているだけです。